D.S.~ダルセーニョ~のブログ(仮)

自分で勝手に考えたことを色々書いています

シリーズ:ノストラダムス③反キリストは人類にとっての悪なのか?

・初めに

 ノストラダムスのシリーズの第三弾となります。

 第一弾はこちら→http://2segno6dall.hatenablog.com/entry/2016/11/26/165356

 第二弾はこちら→http://2segno6dall.hatenablog.com/entry/2016/11/30/154312

 

・反キリストは本当に人類の敵なのか?

 ①②と反キリストという名の人類の敵について述べてきた。今回の記事はそもそも反キリストが本当に人類の敵なのかという根本の疑問について考えていきたいと思う。ポイントは、反「キリスト」だということだ。順を追って説明していくとして、まずは第一第二の反キリストがどんなことをしたのかについて振り返ってみよう。

---ナポレオンは本当に人類の敵だったのか?

 第一の反キリストと呼ばれているナポレオンはちょうどフランス革命が起こっている時に台頭し、最終的にはフランス革命を支持する側につき革命を成功へと導いた。そもそもフランス革命は貴族が優遇される社会に不満を持った民衆が起こした民主革命だ。もしもフランス革命が起こっていなかったら、未だにヨーロッパは貴族社会であり続けたかもしれない。だがナポレオンが革命派に属したのは旧王朝を倒して自分が新王朝を作ることを画策したという野心からだという意見もあるだろう。しかし、結果としてフランスは自由と平等を重んじる社会体制となった。その後のいわゆるナポレオン戦争と呼ばれるものは、革命を遂げたフランスと民主革命を拒んだ反革命軍による戦争となる。現代で例えるなら、自由と平等を掲げるリベラル勢力(革命派)と既存の体制を維持する保守勢力(反革命派)との対決だ。そしてナポレオンがいようがいまいが、革命が発端となった戦争が起こっていたという事実がある。革命から戦争までの一連の経緯の中心にいたのが、ナポレオンだったというだけの話だ。言ってしまえば、ナポレオンは悪者に仕立て上げられたと考えている。仮にナポレオンがいなくて革命が失敗していた場合、革命を許さなかった諸外国は革命派に対してどういう扱いをしていただろうか?反乱分子として徹底的に虐げられた可能性はないだろうか?またナポレオンは残虐だと言われているが、当時の欧州人もギロチンによる処刑を行っていたし、マリーアントワネットを馬車で引きずり回したりもした。残酷な部分はナポレオンだけでなく当時の欧州人にあったという事を忘れてはならない。実際に貴族の傍若無人ぶりに民衆が怒ったから一念発起したのだ。

 以上の事から、ナポレオンが悪魔だったというのは見方によりけりだと私は考えている。ナポレオンは当時のヨーロッパで一段と目立っていたがために、悪者に仕立て上げられたというのが、個人的には正しい表現だと思っている。歴史が違っていれば、反革命派勢力が悪者となっていた可能性だってあるのだ。

 ---どうしてヒトラーは人類の敵になってしまったのか?

 またヒトラーに関しても100%悪者と評価していいのかを問題提起したい。ヒトラーは確かにユダヤ人の大量虐殺を行っていたし、ヨーロッパに破壊と混沌を巻き起こした人物なのは間違いない。だがそもそもどうしてヒトラーは生まれてしまったのか?私は以前この記事でヒトラーを生み出したのは当時のドイツ国民だと述べた。それはまごうことなき事実であるが、逆に言えばヒトラーを支持させるような状況にドイツという国が追い込まれていたという事でもある。それはどういう状況なのかといえば、ブロック経済世界恐慌によってドイツの経済状況が悪化していたという事だ。当時のナチス党はそこに目を付けた選挙演説を行い、支持の獲得に成功した。仕組み的には現在の世界情勢における自国第一主義と同じ仕組みだ(あくまでも仕組み的に同じだというだけであり、自国第一主義=ファシズムではないむしろ全体主義の方がはるかにファシズム化している)。つまり強いドイツを求めたから当時のドイツ国民はヒトラーを始めとしたナチス党を支持したわけである。もしも世界恐慌ブロック経済が存在しなかったら、ドイツの未来はまた変わったものになっていたかもしれない。

 

 このようにして考えると、反キリストは時代の中心人物であり、明確な悪者とは言えないことがわかる。どちらも結果的に悪者という烙印を押されることになったが、行動を起こしたのは自国の未来のためである(ヒトラーの場合は特殊な思想に侵されていたという面もあるが)。世界史的に見れば悪者かもしれないが、もし彼らが事を起こさなかったら別の人物・存在が悪者になっていたであろうことはお忘れなく。

・「反キリスト」という言葉のマジック

 さて。ここでそもそもの問題提起として、「反キリスト」という言葉について考えてみたいと思う。前の記事にも書いたが、「反キリスト」はキリスト教にとっての悪者であって「人類」にとっての悪者ではない。私一個人の意見だが、重要な問題提起だと考えている。凄く単純な話で例えてみよう。ナポレオンもヒトラーも日本にとっての悪者だったのか?ヒトラーは不幸にも仲良くなってしまったので、日本も当時の世界の敵扱いされてしまったが、ナポレオンは日本にとっては無関係だ。ナポレオンもヒトラーキリスト教にとっての敵であり、日本人にとっての敵ではない。私が言いたいのはこういう事なのだ。

---ノストラダムス自身が熱心なキリスト教信者だった

 そもそもノストラダムス自身が生前は熱心なカトリック教徒だったと言われている。実際、彼はキリスト教以外の信仰を強く非難していたとのことだ。もしそうであるならば、キリスト教の敵=反キリストを人類の敵だと詩に書いたのも納得ができる。つまりノストラダムス自身が熱心なキリスト教徒であったから、反キリスト=人類の敵という認識になってしまっているのである

---キリスト教国家の支配が反キリスト=人類の敵という認識を生み出している

 それが現代も続いている。なぜか?それはいわゆるキリスト教の国々が世界を支配する座についているからだ。ノストラダムスの研究者も基本的にはキリスト教徒であろう。だから「反キリストはキリストの敵であって人類の敵ではないのではないか?」という問題提起に気づけないでいるのだと私は考えている。キリスト教の大国が支配しているから、ノストラダムスの予言が広まった今でも反キリスト=人類の敵という認識で統一してしまっているのである。

 反キリストが人類の敵ではない。これを証明できる証拠はないが、特定の人々にとってはキリスト教こそ悪魔だという認識があったりする。それは中東諸国の人々や、イスラム教徒だ。中東のごたごたは言ってしまえば、キリスト教の大国の支配に対する不満が爆発したものだ。現在はイスラム教の内部紛争となってしまっているが、火付け役はキリスト教イスラム教の対立だ。またキリスト教の大国がイスラム教の国々を植民地化し、宗教弾圧を行っていたという歴史がある。現在でもキリストの方が人類の敵だと思っているイスラム教徒は大量にいるだろう。

---中東から第三の反キリストが現れると「誤認」しているわけ

 そしてイスラム教とキリスト教の対立があるから、第三の反キリストが中東から現れると、ノストラダムスの研究者が誤認してしまっていると私は考えている。実際に中東の国々や武装集団は反キリスト勢力が多い。「反キリスト」という言葉に縛られているから、実際に反キリスト勢力が台頭している中東で第三の反キリストが現れると予想してしまっている人が多いと私は考えている。中東で生まれている反キリスト勢力は本当に人類の敵なのか?彼らにとってみれば、キリスト教の方が敵ではないのか?

 

 このように見方を変えると、キリスト教が人類の敵になってしまうことだってあるのだ。そんな見方があるにもかかわらず、反キリストを人類の敵だと断言していいのだろうか?そもそもキリスト教そのものが人類の敵にはならないのか?

・人類の敵は「作られる」もの

 余談になるが、私は最近気が付いたことがある。それはヒトラーがユダヤ人を虐殺していた裏で、特にアメリカで白人による黒人差別が横行していたことだ。聞いた話だとアジア系の人種も一部差別があったとのことだ。ヒトラーはユダヤ人を虐殺していたが、同じ時期に白人も黒人を迫害していた。中には市民レベルで殺害していた人もいるだろう。ヒトラーの虐殺が非難されてアメリカ人の黒人差別が非難されないのはなぜなのか?むろん虐殺と差別ではかなりの違いがあるが、では殺さなければどんなに虐めてもいいのだろうか?これは現在のいじめなどの人権問題にも関わることであろう。

 よく考えてみれば気が付くことだが、その「よく考えれば気が付くこと」を多くの人々が気付けないでいると私は考えている。これこそが戦勝国による支配の実態だと私は考えている。実際に前の記事でも書いたが、中国の虐殺は戦勝国である立場を利用されて世界に広められなかった。なぜヒトラーの虐殺は非難されて、アメリカの黒人差別、中国の虐殺は非難されないのか?それは第二次大戦の戦勝国が自分達に都合の悪いことを封じてきたからなのである。敗戦国や黒人、中国の虐殺の対象となっているチベットウイグル人などからすれば、戦勝国の方こそが悪魔であろう。

 こういう風にして考えると、人類の敵というのは「作られるもの」だということがわかる。ノストラダムスが詩に記した人類の敵というのは、ノストラダムス一個人の考えによって「作られた」人類の敵なのである。そのノストラダムス一個人の考えというのは、キリスト教という宗教に縛られた偏った考えである。ノストラダムス本人が偏っていたから、反キリストが人類の敵であるという表現になってしまっていると私は考えている。

---人間が生み出すものは絶対に偏るもの

 とはいえ、個人の考えというのは絶対に偏るものだ。この世界に100%公平な考えというのは存在しない。存在するとしたら、それは特定の思想に支配されていて特定の思想を疑問に思わない社会に存在するだろう。なので、ノストラダムスが偏っているのは仕方のないことだ。大事なのは、どんな作品であっても基本的に偏っている人間が作り出したものだという事を認識することだ。これは私が他の記事で書いているメディアリテラシーの概念と同じものだ。ノストラダムスの詩は実は偏っていて、反キリストは本当に人類の敵なのか?という疑問を持つことが大事だという事である。

・人類にとっての救世主になるかもしれない第三の反キリスト

 という風に考えると、反キリスト=人類の敵ではないという考えが浮かぶ。それで反キリストについて考えると、キリスト教にとっての敵という事になる。ということは即ち反キリストが人類にとっての救世主になる可能性があるという事だ。それが前の記事に書いた日本で生まれる「太陽」なる人物だという事である。

 太陽はもしかしたらキリスト教の敵になるかもしれない。なぜならば、そもそも太陽が生まれる日本そのものが宗教に左右されない国だからだ。人々は宗教に属さず、むしろ宗教的イベントが俗なイベントとして行われる国でもある(実は俗なイベントに踊らされること自体がある意味での宗教に近いことになっているのだが管轄外なので割愛。でも私が以前書いた記事を読めばわかるよね?)。一応日本にも神を信じる習慣はある。しかしそれは世界のように崇高な神とそれをあがめる人という上下関係ではなく、神様と一緒になって歌ったり踊ったりするという風習だ。先の俗なイベント(クリスマスとかハロウィンとか)にも一応この風習が見られている。当人たちは神とかを絶対に意識していないが、逆に言えば無意識に神と戯れているという事である。これが日本の八百万の神信仰なのである。神様はどこにでもいる当たり前の存在、神と共に生き、神とともに泣き、神とともに怒る、これが日本の信仰なのである。

---八百万信仰が世界を救う!?

 この日本の八百万信仰が世界の考え方の中心になったら、世界の宗教は淘汰される・・・というわけではない。重要なのは八百万の信仰は他の宗教も受け入れるという事だ。どちらかというと、現代八百万信仰(現代日本のクリスマスやハロウィン)にこの側面は現れているだろう。つまりキリスト教イスラム教も共に生きられる世界を実現することができるという事だ。実際に日本の有識者の中には、八百万信仰のある日本こそが中東で起こっている宗教紛争を止めることができると考えている人もいる。日本の八百万信仰が世界を支配することになるという事はどういうことなのか?それはキリスト教が支配する世界が終わることを意味する。キリスト教が支配する世界を終わらせる八百万信仰の日本と考えれば、反キリストが日本から生まれることも考えられるのではないだろうか?八百万信仰は間違いなくキリスト教支配にとっての敵なのだから。

 という風にして考えると、反キリスト=人類の敵という図式が成り立たないことがわかるだろう。あくまでもキリスト教にとっての敵なのであって、人類にとっての敵ではない。もし日本から反キリストが現れたら、確かにその人物はキリスト教にとっての敵になるかもしれない。だがそれ即ち人類の敵とは限らない。日本から現れる第三の反キリストは八百万信仰を世界に広めて、世界に本当の平和をもたらす可能性だってあるのだ。そりゃあキリスト教による支配を絶対正義だと思っている人からすれば、その人物が敵になるのは間違いない。反キリストとは結局キリスト教にとっての敵なのだという事を、どうか覚えておいてほしい。

 ・結局最終的には第三の反キリスト次第

 以上、反キリストが人類の敵ではないのではないか?という疑問に対する主張を述べた。が、反キリストが人類の敵ではないかどうかは結局は現れる国や地域・当人にもよる。上記の主張は日本から反キリストが現れた場合の主張になるが、中国から反キリストが現れた場合は別だ。まごうことなき人類の敵になるだろう。中華民族自体がヒトラーを超える残虐性を持っているからね。また前の記事にも書いたが、日本から生まれたとしてもその人物が中国の傀儡になったり、中国人以上の極悪人になる可能性だってある。結局の所は、第三の反キリスト次第になるということだ。腑に落ちないかもしれないが、これが一番正しい結論であろう。第三の反キリストが必ずしも人類の敵になるかどうかはわからないという事だけは述べておきたい。

 

 以上で今回の記事は終わりとする。まだ書きたいことがあるので続くが、次回はノストラダムスの詩自体が本当に予言の書なのかについて考えてみたいと思う。