D.S.~ダルセーニョ~のブログ(仮)

自分で勝手に考えたことを色々書いています

今の日本だからこそ国営メディアが必要な理由を説く

 今回の文章は自分自身の考え方をまとめただけにすぎません。ご了承ください。

 前編後編に分かれています。こちらが前編になります。後編のリンクは最後に記載してあります。前編では主に国営メディアを設立させる理由について述べています。

 

 今回の文章では国営メディアの必要性について説きたいと思う。色々と述べたいことはあるが、まずはなぜ今の日本に国営メディアが必要なのかについて述べよう。

・報道しない自由を行使するメディアへの対抗策

 なぜ今の日本に国営メディアが必要なのか?それはズバリ一言で表される。日本の民間メディアが報道しないものが多すぎるからだ。厳密には日本のマスメディアは何を報じて何を報じないのかの取捨選択を行っている。そのメディアの取捨選択に疑問を感じているから、国営メディアを設立すべきではないかと考えたのだ。

 そもそもテレビや新聞といった報道は作られるもの。いわば加工品といった方がいいだろう。布やプラスチックなどの素材には天然物と加工物の二つがあるのはご存知だろう。報道にも天然物と加工物の二つが存在すると私は考えている。天然物はいわゆる生中継だ。編集されていないありのままの姿を映し出す生中継はまさに天然物の報道だと言えよう。そんな生中継以外の報道は全て加工された報道となる。テレビに出てくるVTRや写真、新聞の記事といったものは全て人の手が加わっている加工品なのである。つまり生放送以外の報道には人の主観的な部分が何かしらは必ず入っているということ。よって加工されたテレビや新聞の報道は必ずしも客観的とは言えないのである。これは今の時代の報道の大前提であり、メディアリテラシーを学ぶ際には必ず出てくるもの。まずメディア報道には何かしらの主観的な部分が絶対に入っており、この世界に客観的な報道は存在しないことから認識すべきである。この認識ができていない日本人が圧倒的多数派なのでまずはこれを述べておく。

 加工された報道は人の手が加わった主観的なものになる。その主観的なものをどれだけ客観的に近づけるかがマスメディアに課せられた義務だ。マスメディアが客観的だという一般認識は、客観的な報道を行わなければいけない義務をマスメディアが負っていて、その義務に基づいて報道を行っていると思い込んでいるから生まれる認識だと考えている。その思い込みを是正してマスメディアは本当に客観的な報道を行っているのかを調査・研究・監視することがメディアリテラシーなのである

 話を戻して、今の日本のマスメディアは客観的な報道を行うという義務を放棄しているとしか見えなくなっている。だから私は客観性のなくなった日本のマスメディアから客観性を取り戻すために国営メディアの設立を訴えているのである。客観性を取り戻すための国営メディアの設立というのもおかしな話だが、そのおかしなことを実行しなければいけないほど今の日本のマスメディアは異常なのだということなのである

・客観的な報道とは何か?

 そもそも客観的な報道とは何なのかという疑問が浮かぶ人がいるだろう。先にも述べたが、この世界に客観的な報道は存在しない。この世界に存在する報道というのは全て主観的なものなのだ。基本的に主観な報道をどれだけ客観的にできるかどうかがマスメディアの仕事なのだ。

 ではどうやって主観的な報道を客観的に報道するのか?様々な方法があるが、単純明快に対立する二つの案を同じように報道することがまず挙げられるだろう。Aという法案が成立したとする。それに対するB派という賛成派と、C派という反対派の二つの派閥があるとする。客観的な報道というのは、まずAという法案がどのような法案なのかを報道した上で、B派の主張とC派の主張を同じ時間・同じ内容で報じるのが客観的な報道なのである。B派が10分話していたら、C派も10分話をさせる。C派にインタビューを行ったら、B派にもインタビューを行う。B派・C派それぞれの主張を同じように報じて、メディア側の余計な着色をつけないで、視聴者に問題提起をさせる。これが客観的な報道だと私は考えている。

 勘違いしてはいけないのは社会や常識を踏まえた上での報道は客観的な報道ではないということだ。どういうことかといえば、社会や常識というのは時代によって人によって考え方が様々に変容するものだ。常識というのは人の数だけ存在するものだし、社会に生きる一人ひとりの人間が必ずしも同じ考えを持つとは限らない。つまり社会や常識を踏まえた上での報道は、特定の人物・特定の考え方に契合した報道にならざるを得なくなる。本当に社会・常識を踏まえた報道を行うのなら、その国の人口全員の考え方を踏まえた上で報道しなければならない。そんなことできるわけないだろう?なので、社会や常識に沿った報道というのは客観的な報道ではなく、特定の人物・特定の考え方に契合した主観的な報道なのである。この認識を日本人は持つ必要がある。

・客観的な報道がされていない日本のマスメディア

 これらを踏まえた上で日本のマスメディアの報道を見てみよう。まずAという法案に対するB派C派の意見を報道しているのかについて。ここでは、A=安全保障関連法案、B派=安保賛成派、C派=安保反対派と例えて考えてみる。日本のマスメディアの安全保障関連法案(以下安保法と表記)に対する報道は、安保賛成派と安保反対派の二つの主張を同じように取り上げているのか?答えはNOである。なぜならば、日本のマスメディアの報道には度々安保法反対のデモ活動が報道されるのに対し、安保法賛成のデモ活動は報道されないではないか。むろん賛成のためのデモ活動なんてあるのかと思うかもしれないが、一応存在はしているテレビのワイドショーで安保法賛成派のデモ活動を見たという人はどのくらいいるだろうか?全く見ていないのが大半なのではないか?逆に安保反対派のデモは飽きるほど見たという人が多いのではないか?これが日本のマスメディアの実態だ。安保反対派のデモだけ取り上げて、安保賛成派のデモを取り上げていない時点で、安保法の報道は客観的な報道ではないと証明できるのである。デモだけでなく有識者やコメンテーター・番組の編成に関しても安保賛成派の意見は全く取り上げられていない。安保法に関しては徹底した否定の報道ばかり繰り返している。よって安保法に関して日本のマスメディアは間違いなく客観的な報道を行っていないと言えるだろう。

 そして報道内容は社会()や常識()を重視したような報道ばかりだ。まるで日本の社会や常識は自分達が作り出しているかのような、特定の考え方が前提にある報道内容なのではないだろうか?その特定の考え方というのは、愛国否定・戦争反対・中韓友好・過剰平和といったものが挙げられるだろう。日本人全員がこの考え方に賛同していると思っているのだろうか?思っているからあんな報道ができるのだと考えている。いわば特定の思想が重視されているから日本のマスメディアの報道は変な偏り方をしているのである

 他にもアベノミクスや対中国戦略、イギリスのEU離脱、沖縄問題といった様々な問題で客観的な報道がなされていないことは報道をよく精査すればわかるはずだ。日本のマスメディアは様々な面から客観的な報道ができていないと言えるだろう。

・なぜ客観的な報道ができないのか?

 ではなぜ日本のマスメディアは客観的な報道ができないのか?そもそも報道機関というのは一種の企業。つまり利益を追求するものなのである。なので、偏るのは当然のことなのだ。そもそもの今の日本の報道機関の在り方として、偏るのはしょうがないのである。が、それでもなるべく客観的な報道に近づけるという義務は行うべきものだ。それが「報道機関」の役目なのだからな。なぜ日本のマスメディアは報道機関の役目をはたしていないのか?様々な答えがあると思うが私はその中から、国民が異常なまでにメディアを心酔しているからという理由を上げたいと思う。

 日本国民は基本的にはマスメディアの報道は鵜呑みにしてしまう。なぜなのかといったらメディアを疑うという教育を行っていないから。・・・というのもあるが、最近はどうも日本の風土的にお上の情報を鵜呑みにする習性がついているのではないかと考え始めている。この辺に関してはまた詳しく調べた後で取り上げたいので、日本人の習性については置いておく。習性以外でここまでテレビを心酔してしまうのはやはりメディアを疑う教育を行っていないからと言わざるを得ないだろう。

 テレビやラジオの台頭と同時に、欧米ではメディアを疑う必要があるのではないかという考えも生まれた。それはかつてのナチスがメディアを使って自分達のイデオロギーを拡散しようとしたことから本格的な議論が始まった。ナチスのメディア戦略に対抗する形で生まれたのがメディアリテラシーなのである。このメディアリテラシーが未だに日本で教わられていないから日本国民は未だにテレビを世界で一番長く見ていると考えている。

 ナチスへの対抗策の一つとしてのメディアリテラシー教育が行われていないことは、新たなナチスが生まれてしまう危険性を持っていると考えている。日本のマスメディアはよく安倍首相をヒトラーだと例えているが、本当のヒトラーもといナチスはどういう組織なのだろうか?自民党ナチスだとでもいうのだろうか?現在の日本の状況を考えるに、ナチスに一番近いのは日本のマスメディアなのではないかと考えている。あくまでも持論だが、ヒトラー並びにナチスをよく勉強して、日本に例えた場合のナチスヒトラーはどんな存在なのか考えてみるのは面白いだろう暇つぶしにはなるだろう

 話を戻して、こんな日本国民の現状を完全にマスメディアは舐めきっている。むろん批判は当然ながらあるが、それは表面化されなければメディアの反省を促す材料にはならない。メディア批判を表に出すことはマスメディアによってなされるものなので、メディアに対する問題をメディア自身が認識するという自浄作用が働かなければ、国民を動かすことにはならない。ようはメディアの自浄作用が完全になくなっているということなのだが、基本的にテレビからの情報収集しかしない日本人は、テレビが報道しなければ批判も行わない。つまり国民が完全にテレビに支配されているからメディアの自浄もなくなってしまい、結果としてメディアから客観的な報道がなくなってしまっているのだと分析している。これが今の日本のマスメディアから客観的な報道がなくなっている原因だと考えている。ようは教育のせいかもしれないが、自分達の頭で考えて報道に疑問を感じることがない以上、日本人のせいで客観的な報道がなくなっていると言わざるを得ないのだ。これおかしくね?って思っても結局水に流してしまうのが日本人なのではないか?その疑問を水に流してきた結果が今の日本社会の惨状なのである。メディアが客観的な報道を行わなくなっている背景には、加工された主観的な報道を日本人が疑問を持たないで信じ切ってしまう面があると私は考えているのである。むろんあくまでも一つの仮説であり、他にも日本のマスメディアが客観的な報道を行っていない理由はまだまだ存在するだろう。

・国営メディアと民間メディアの共存を望む

 こんな日本の報道を現状のままにしておいていいわけがない。そこで私が考えたのが国営メディアの設立なのである。自浄作用が期待できない以上、もう国がやるしかない。

 とはいえ、国営メディアの一言に不安を感じる者もいるだろう。メディアは基本的に偏るものなので、当然ながら国営メディアも偏るもの。国営メディアの偏りに関しては、中国や北朝鮮といった独裁国家を見てみると理解できるだろう。民間のマスメディアが自分達にとって都合の悪いことは報道しないように、国営メディアも現政権にとって都合の悪いものは報道しない。なので国営メディアが設立された場合にも伝わらない情報はある。むしろ情報がより限られた情報に一元化される恐れがある。場合によっては国営メディアに民間メディアが統合されてしまう恐れもあるだろう。中国や北朝鮮の国営メディアの現状を踏まえれば、言論の自由の観点から国営メディアの設立に不安を考える人もいるだろう。

 だがそれは国営メディアのみに限る話だ。私は国営メディアを設立すると述べているのであり、民間メディアを潰そうとは思っていない。ここが私の考え方のポイントだ。私は国営メディアと民間メディアの共存を考えているのである。

 国営メディアも民間メディアもお互いに報道するもの、しないものは異なってくるはずだ。国営メディアは政府の不祥事を報道しないで、民間メディアは自分達の不祥事を報道しない。逆に言えば、民間メディアの不祥事を国営メディアが報じ、国営メディアの不祥事を民間メディアが報じることだってあるはずだ。つまり国営と民間でお互いに報道しないことを報道しあうようにすれば情報の一元化はなくなると考えているのである。

・民間メディアが報道しないことを国営メディアで報道する

 つまり民間メディアが報道しないことを国営メディアを使って報道させようと考えているのである。先ほどの例から考えると、安保法賛成派の意見は全く報道していないのが日本の民間メディアである。民間メディアが報道しない安保法賛成派の意見を国営メディアが報道すればいいのだ。こうすることで、メディア同士の報道合戦により間接的な報道の客観性が生まれるのではないかと考えている。むろん「国営」とあるのだから国の方針に従うような報道が多くなるだろう。逆に言えば、民間メディアは国の方針に反発する報道を行えばいいのである。国営メディアで国の方針に沿う報道をし、民間メディアで問題点を追及する。こうすることで情報の受け手は情報の整理ができるようになるものと思われる。

 実際にこのような報道形態を行っていると私が考えている国がある。それがアメリカだ。アメリカの報道に関してはこちらの文章を参照してもらいたい。基本的にアメリカのメディアは自分達のスタンスを表明している。なのでアメリカのメディアは全てが同じ報道ではなくそれぞれが独立した報道を展開している。それにより、国民の認識は一方向に偏ることがなくなる。それぞれがそれぞれの認識を持ってぶつけ合う。それがアメリカの民主主義なのである。結果論的ではあるが、アメリカメディアのスタンスを明確にしている方針は、偏っていると言われる一方で民衆は一方向に流されないという面もあるので、最終的には客観的な考え方を民衆が養うことに結びついちゃっているのである。主観的な報道を国民が客観的にしているのがアメリカなのである。これを参考にして国営メディアの設立を考えたというのもある。まあ今あの有様だから説得力がないかもしれないけど。

 だが一番大きいのは日本のマスメディアが報道しない事例が多すぎることだ。twitterなどで「なぜ報道しない?」とか「報道」なんかを検索してみると、マスメディアの取捨選択に疑問を持っている人が多いことがわかるはずだ。いわゆる報道しない自由というやつだ。これにより国益が妨げられているケースがある。

---意図的に情報を隠している節がある日本のマスメディア

 またどうでもいい報道を大掛かりにして重要な報道を隠しているケースも見受けられる。最近だと市川海老蔵さんの妻の小林麻央さんの乳がんに関する報道が当てはまるだろう。小林麻央さんの乳がんは実は話題になった時の1年8か月前から判明していたことなのだ。にもかかわらずなぜあのタイミングで報道したのか疑問ではないか?ちょうどその頃は中国が初めて尖閣諸島に軍艦を派遣した日であり、この日本の国防に関わる一大ニュースは小林麻央さんの件に隠れてしまった。むしろ1年8か月前に判明していたことをあのタイミングで報道したということは、中国の領海侵犯を隠す意図があったのではないかと疑ってしまう。あのタイミングでのスキャンダルでしかも海老蔵さん陣営にまで悪影響を及ぼして非難が集中したマスメディアの対応は、明らかにおかしい

 このような意味不明な行動をしてまでも情報を隠しているケースが日本のマスメディアに多々見受けられている。このような状況に楔を打ち込む意味でも国営メディアの設立は有意義だと考えている。少なくとも国営メディアが設立されていれば、時の政権にもよるかもしれないが、尖閣諸島中国軍艦が接近したニュースを大々的に取り上げていただろう。小林麻央さんの件は民間がやって、尖閣の件を国営でやる。お互いが報道しないことを報道するのだから視聴者にとっては同時に二つの情報が得られるのでお得であろう。

---国営と民間の報道が同じになってはいけない

 なお国営メディアと民間メディアの報道が同じになってはならないと考えている。理由は単純明快で、組織が異なる二つのメディアが同じ報道をしていたら二つに分けている意味がないからだ。時の政権次第で国営メディアの報道内容はころころ変わるだろう。それに合わせて民間メディアも報道内容を変えなければ、結局今のような報道内容が一元化された状況に戻ってしまう。それでは国営と民間で分けた意味がなくなるので最終的にどちらかに統合されることになるだろう。国の方が力が強いと思われるので、恐らくすべてのメディアが国営に統合されることになるだろう。それはもはや社会主義化だ。

 そうならないためには民間メディアが常に国営メディアを監視して国営メディアと報道が同じにならないように調整し続ける必要がある。それは民間メディア側自身のスキル向上にもつながると私は考えている。なので、国営メディアを設置しようが結局は民間メディア次第なのだということである。民間メディアの自浄作用を促すための国営メディアと考えた方がいいかもしれない。少なくとも今の状態で自浄作用を期待するよりかははるかに有意義だと思っている。

・今回はここまで

 ここまでで前編は終了です。

 

後編はこちらになります。