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D.S.~ダルセーニョ~のブログ(仮)

自分で勝手に考えたことを色々書いています

2020東京五輪中止は必然だった!?2020東京五輪に反対する理由を述べる

my thinking

・初めに

 この文章は東京五輪に反対する私一個人の考えをまとめたものです。完全に自己満足に過ぎません。ご了承ください。

 

・ついに浮上した東京五輪中止の可能性

 まずはこちらの記事をご覧いただきたい。

 東京五輪が中止になる可能性が浮上したのだ。どうしてこれが浮上したのだと言えば、発端は東京五輪承知の際に不正な送金が行われたのではないかという疑惑が浮上したこと。どうもこの疑惑がに近いらしく、東京五輪が中止になり、代わりの五輪はロンドン五輪になる可能性が出てきたのである。もしも本当に東京五輪が中止になってしまったら、あれだけ東京五輪に熱狂していた日本人、並びに日本社会はどんな気持ちになってしまうのだろうか?

 この一連の騒動自体が陰謀だとする説も浮上している。むろんその可能性は否定できないが、私は東京五輪中止は最初から決められたものではなかったのではないかと思っている。そもそも私は招致の時点で東京五輪に反対だった。だから東京五輪が決まった時、世間の流れとは逆に落胆した自分がいた。東京五輪開催に落胆した日本人は私ぐらいしかいないのではないだろうか?その根拠、並びに私が最初から東京五輪に反対していた理由をこの文章で述べる。

・そもそもの東京五輪開催の意義

 早速始めるが、まずそもそも論として何のために東京五輪を開催するのだろうか?そもそもオリンピックとは何だ?まず世界的なスポーツの祭典だろう。世界的なスポーツの祭典が東京で行われる。これ自体は全く問題のないことだ。だが、この世界的なスポーツの祭典は一度東京で行われたことがある。それは1964年に開催された東京五輪の事である。つまり、一度東京五輪は行われているのである

---世界的なスポーツの祭典が持つ意味

 一度行われた世界的なスポーツの祭典をもう一度行う。まずこれ自体に疑問を抱かないだろうか?そして、オリンピックの本当の意義というのは何なのだろうか?オリンピックは世界的なスポーツの祭典。そもそもスポーツとは何だ?スポーツというのは人間が体を動かして楽しく遊ぶ遊戯である。その遊戯は全ての人間が自由に行っていいものであろう?人間が自由に遊ぶことのできる遊戯の一つとしてスポーツは存在する。そのスポーツの世界的な祭典とはどういうものだろうか?それはこの世界に生きる人々すべてが何の隔たりもなく参加できるスポーツのお祭りであろう。その隔たりというのは政治的対立・宗教的対立・言語の違い・文化の違いといった社会の隔たりであろう。スポーツの本来の原則に基づけば世界的なスポーツの祭典というのは、社会の隔たりを取り外したまっさらな状態で、世界中の人々が一堂に集まってスポーツを行うお祭りなのではないだろうか?これがオリンピックの大原則であり、本当の原点であると私は思っている。

 その考えに基づけばオリンピックが開催される場所も重要になってくる。政治・社会・文化といった隔たりのないスポーツの世界的な祭典なのだから、国があれば原則的にどこでも開催していいものではないだろうか?むろん現実的に考えて開催が困難な国もある。例えば大自然が生い茂っていて競技並びに競技場の設置が困難な国、山奥や砂漠といった環境的な意味で世界の人々を招くのが困難な国、そもそも国土面積が狭すぎてオリンピックの開催が困難な国、など。そういったイレギュラーな国は確かに存在するが、原則的には世界のどんな国でも開催すべきものではあるのではないだろうか?

 また世界的なスポーツの祭典で、開催される場所も自由なのだから、全ての国で一度は開催してもいいのではないだろうか?世界的なスポーツの祭典なのに、同じ国同じ地域でばかり開催されていたらどう思う?それはそれでいいのかもしれないが、それは本当に「隔たりのない自由な世界的なスポーツの祭典」なのだろうか?こういう風にも考えているので、私はイレギュラーは除くとしても、原則この世界に存在する全ての国(国連加盟国でいいかも)でオリンピックが一度は開催されるべきだと思っている。二回目の開催は全ての国で一度は必ず行ってから行うべきだと考えている。

---本気で北朝鮮でオリンピックが開催されてもいいと思っている

 この考え方に基づけば、私は本気で北朝鮮でオリンピックが開催されてもいいと思っている。とはいえ現実もちゃんと考える必要があり、北朝鮮が色々な隔たりをなくし、政治的な主張やアピールは絶対に行わない、選手の安全と生活・健康状態の安定、などがしっかりと確保できなければオリンピックの開催はできないと思っている。逆に言えば、先ほど挙げたものが保証できるのであれば、私は北朝鮮でもオリンピックは開催されるべきだと考えている。北朝鮮とは政治的な対立があるが、それを本来は何の制限もなく自由に行われるスポーツに持ち込むのはどうだろうか?たとえ政治的な対立があったとしても、スポーツはスポーツだろう?それはそれ、これはこれ、と政治とスポーツは本来分けるべきものだと私は考えている(それをわからないでスポーツに政治的要素を持ちこむ北朝鮮のすぐ下の国は、世界中から嫌われて当然である。スポーツマンシップなら本気で北朝鮮の方が上だと思うぞ

 

 私はそもそもオリンピックというものをこういう風に考えている。この考えに基づいて2020年東京五輪を見た場合、一度1964年に開催されているものをもう一度行う必要があるのだろうか?

・1964年の東京五輪はどういうものだったか?

 実は大学時代に1964年の東京五輪を記録したドキュメンタリーを講義で拝見したことがある。

 こちらだったかは覚えていないが、そのドキュメンタリーを見て物凄く感動した覚えがある。もしかしたらこちらを見ればわかるかもしれない。

---エンブレムから違いがわかる東京五輪

 1964年の東京五輪はどういうものだっただろうか?1964年の東京五輪はアジア地域では初めて開催されたオリンピックであり、日本からしてみても敗戦という暗き時代からの復活を象徴するオリンピックでもあった。つまり、時代に残る偉大なオリンピックだったのである。その時のエンブレムも掲載しよう。

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そして2020年東京五輪のエンブレムと見比べてみよう。

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 たかがエンブレム1つだけでも込められた想いというのがわかる。1964年の東京五輪のエンブレムは、日の丸に五輪が描かれた非常にシンプルなものだ。このエンブレムを見て何を感じるだろうか?当時のこのエンブレムは圧倒的な賛成多数で決まったものだ。どうして圧倒的な賛成多数で決まったと思う?それはまさに日本の復活を象徴する立派なエンブレムだったからではないだろうか?

 それに比べて2020東京五輪のエンブレムはどうだ?そもそも「日本らしさ」を感じるか?恐らく日本らしさをあえて抑えてエンブレムを作ったのだと思うが、日本で開催されるオリンピックなのに日本らしさを抑えるというのもおかしな話ではないか?このエンブレム1つだけでも2020東京五輪は1964東京五輪とは異なるものであるということがおわかりいただけるだろう。そして1964東京五輪を超えるものにならないことも明白なのである。たったエンブレム1つだけで、それに込められた想いは天と地ほどの差があることが十分わかるのである。

---聖火リレーで通ったか否かで分かれる親反日

 また1964東京五輪に関しては聖火リレーのエピソードが印象的だ。当時の聖火リレーは、第二次世界大戦で日本軍が当時植民地支配を行っていたヨーロッパ諸国やアメリカの軍隊と戦った地域を通った、平和のための聖火リレーを印象付けたもの(植民地支配を行っていたのではなく、植民地支配と「戦った」というのがポイント)。当時の聖火リレーのルートがこちらである。

http://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/story/images/vol01_p02map.gif

 このルートを通った国々はほぼ全て親日である(厳密には香港を所有する中国は親日ではないが、当時の香港はイギリス領であり、現在の香港のあり方も考えると必ずしも中華思想に染まっていない節が見られる)。この平和のための聖火リレーで戦火の地を走ってくれたから、特に東南アジア諸国は今は親日国の多い地域になっていると考えることはできるのである。

 逆にこの聖火リレーで走っていない国、特に中国と韓国に関しては現在も反日だ。中国と韓国が他のアジア諸国と違って現在も反日なのは、かつての東京五輪聖火リレーで中国・韓国を走らなかったからという見方がある。じゃあ次の2020東京五輪で走ればいいと思うかもしれないが、当時とは状況が違う。1964年の聖火リレーは敗戦からの奇跡の復活を遂げた日本が平和への思いを込めて走ったもの。敗戦後でアジアで初開催という特別な思いを秘めた東京五輪だったからこそ、かつての戦地を走ったことの意義があったのである。あの時代に走ったからこそ多くの国が親日国となったのであり、発展著しい今の時代に走ったところで、むしろ中韓に利用されるのがオチだ。そもそも現在の中韓と日本は戦ってすらいない中国がややこしくて、戦ったのは現在の台湾にいる中国国民党であり、現在中国を支配している中国共産党とは戦っていない)。今の時代で聖火リレーとして中韓を走るのは、友好としての意義はあるが、それは1964年の聖火リレーとは程遠いものになるだろう。少なくとも感動はないだろう

 話を戻して、1964年当時の聖火の最終ランナーは1945年8月6日に広島県三次市で生まれた当時19歳の坂井義則氏。そう、あの原爆投下の日に広島市にほど近い場所で生を享けた若者なのである。そんな若者が最終ランナーとして聖火台への階段を駆け上る姿は、日本の復活を象徴づけたと言われている。

 以上の聖火リレーのエピソードはwikipediaから参照したものだが、上に上げたドキュメンタリーにも描かれているかもしれない。というか私が大学時代に見たものと同じならば、上のドキュメンタリーを見た方がはるかに良い。開催するしないはともかく、2020年の東京五輪を迎えるにあたって、1964年の東京五輪はどういうものだったのかを映像で見ておく必要はあるだろう。そしてそのドキュメンタリーを見た暁には、今行おうとしている東京五輪がどれだけ変なものなのかがわかるはずだ。2020東京五輪に賛成反対問わず一度は上記のドキュメンタリーを見ておくことをオススメする(特に大学生なんか大学に置いてあるんじゃないかな?)

 まとめると、1964年の東京五輪は日本の復活を象徴するものであり、多くの人々の記憶と記録に残る偉大なオリンピックであったということである。

・1964は絶対に越えられない2020東京五輪

 1964年の東京五輪が偉大なものであることはわかった。さあこれらを踏まえて2020年の東京五輪の意義を考えてみようか。日本の復活のため?何から復活するのだ?自虐思想か?アメリカの支配からか?お花畑からか?どう考えても日本の復活のための東京五輪、つまり1964年の東京五輪とは異なるものになるのは明確だ。では何のために2020年の東京五輪を開催するのだろうか?景気回復のためか?日本の景気が悪いのは企業のせいであり、そもそも世界全体で見たら日本の景気はまだまだ安泰だ。そんな日本の経済力をアピールするためのオリンピックなのだろうか?それは傲慢であり、そもそものオリンピックの原点から外れた歪んだものだ。今一度私たちは立ち止まって考えるべきではないだろうか?2020年東京五輪開催の意義を

 こうして実際に考えてみると、2020年東京五輪の意義がわからないのではないだろうか?そしてどう考えても1964年の東京五輪を超えることはできない。つまり、劣化したオリンピックをもう一度開催するということなのだ。そんなオリンピックは開催する必要があるのだろうか?こういう観点から私は2020年東京五輪を否定しているのである。

・もしも日本でオリンピックを開催するとしたら・・・

 私は東京でオリンピックを開くことには反対しているが、日本でオリンピックを開催することには賛成である。先ほど全ての国で一度はオリンピックを行うべきだと主張し、日本ではもうオリンピックを開催すべきではないのではないか?と思った方がいるだろうが、理想と現実は異なる。理想はあくまでも理想だが、現実的に考えれば様々な面から全ての国で一度の五輪開催はまだまだ難しいものであろう。なので、一度開催した国で妥協するという案も現実的には出てくるだろう。ちゃんと現実も考えた上でオリンピックについて考えているので、日本での開催には賛成というわけである。

---災害復興から立ち上がる五輪こそ日本の新たな復活を象徴するはず

 では日本のどこでオリンピックを開催するのが望ましいのか?今だったら福島、または熊本・大分のあたりだろう。これらの地域は地震災害で被害を受けた地域で今も完全な復興は成し遂げられていない。(まあ熊本大分地震は一か月前に起こったものであるが)もしもこれらの地でオリンピックを開催することになったらどうなるだろうか?まずオリンピック開催のための下準備をしなくてはならない。それは荒れた道路等の整備や倒壊した建物の撤去並びに建設、また十分なインフラ設備や選手の宿泊所等。いわゆる大規模な工事が行われることは明白だ。まさか被災して瓦礫が残ったままの地でオリンピックを開催するなんて発想はないだろう。つまり、オリンピック開催の準備が間接的に震災復興に繋がるということなのである。この時点で十分意義のある五輪にならないだろうか?そして地震で被災した地域が元通りになった姿をオリンピックで世界中にアピールし、災害に負けない日本を印象付ける。これだったらかつての東京五輪に引けを取らない五輪にならないだろうか?

 まとめると、災害にあった地域でのオリンピックの開催は、開催準備が間接的に災害復興に繋がることになり、実際のオリンピックでも災害から復興した街の姿を世界にアピールすることで、災害に負けない力強い日本を印象付けるものになることが予想される。そしてこのオリンピックは1964年の東京五輪に引けを取らないものになる可能性も十分にある。こちらもまた日本の復活を象徴するオリンピックになるかもしれないのだ。

 こうして考えると今の日本でオリンピックを開催するなら、自然災害の被害にあった地域で開催すべきであり、何の被害も受けていない大都市圏で開催する意義は全くないのである。こうした面でも東京五輪は無意味なものであることがわかるはずだ。なのになぜ東京にこだわってしまったのか?誘致の段階では東日本大震災で被災した福島という地域があるのだからそちらにした方がはるかに有意義だったはず。にもかかわらずなぜ東京をごり押ししたのか?様々な理由が想定されるが、一番大きいのは東京の人達が自己満足にふけりたかっただけだろう。こうしたいわば歪んだオリンピックを開催する意義はあるのだろうか?私はないと断言する。オリンピックは元々そんな私欲に塗れた祭典ではない。純粋に世界中の人達が何の隔たりもなくスポーツを楽しむ祭典なのが元々のオリンピックではないのだろうか?それを一度開催して、しかも何の意義もない東京で開催する必要がどこにあるというのだろうか?だから私は東京五輪に反対なのである。

---なぜ風評被害の払拭のための五輪を考えられない?

 余談だが、福島でオリンピックを開催したくない理由の一つに放射能への懸念は存在するだろう。確かに東日本大震災原子力発電所が崩壊し、放射能が拡散してしまったのはあるが、それはどの程度のものなのだろうか?日本は福島原子力発電所の事故をチェルノブイリと同レベルに指定しているが、実際のチェルノブイリ近辺の写真等と見比べてみても、どう考えてもチェルノブイリと同レベルの災害ではない。むしろ軽い方なのではないだろうか?にもかかわらずあれだけの大騒ぎを起こしているのは、日本全体が放射能アレルギーに陥っているからであろう。まあ無理もない。原爆という史上最悪の兵器を落とされたのだから。そのくせに原子力発電所には事故が起こってから反対するという意味不明さ。放射能が嫌だったら普通建設時に反対するだろ。だが原爆に比べれば放射能の程度は軽いのは明白だろう?福島原発近辺に行ったら全ての生き物が死に絶えるのか?本当にひどい放射能被害は防護服が意味をなさなくなる。福島原発事故は防護服が意味をなさないほどの事故なのだろうか?よく考えてほしい。それに、福島での放射能の被害は甚大で放射能濃度の高い地域は一生人が住めない地域になると言われているが、そんなことを言っている人たちに一つの問題提起を行ってこの話は終わりにしよう。原爆という放射能爆弾を落とされた広島長崎は今どうなっている?

・まとめ

 ここまでの主張を簡単にまとめる。私が2020東京五輪に反対しているのは次のとおりである。

・そもそも一度東京で開催しているのにもう一度東京で五輪を開く必要があるのか?(オリンピックの原点からの疑問)

・1964年の東京五輪とは全く違うもので、しかも当時よりも意義としては劣化した五輪を開催する意義は何なのだろうか?

・仮に日本で五輪を開催するなら災害の被害にあった地域で開催すべきであり、何の被害も受けていない東京で開催する必要性はない

・結局は東京都民の自己満足だろ?

以上の観点から私は東京五輪に反対なのである。誘致段階での反対もこういう観点から反対だったのである。

・中止が必然な理由

 最後にこの部分を述べて終わりとしよう。上記の観点から私は元々2020東京五輪に反対だった。2020東京五輪はどう考えても本来のオリンピックの原則からかけ離れた歪んだオリンピックになるのは明白である。本当に日本の事を考えたオリンピック開催をするなら、東日本大震災の被災地でオリンピックを開催すべきであろう。

 そんな日本のことなど考えないただ自分達が楽しみたい、自分達が喜びたいという私欲に塗れたオリンピック。だから問題が多発するのである東京五輪が決まってから今日まで東京五輪を巡って様々な問題が生まれたのは記憶に新しい。上に上げたエンブレムも問題が発生して一から作り直したエンブレムなのである。今は2016年、2020年まではあと四年ある。あと四年もあるのに問題が噴出しすぎではないだろうか?恐らくこの問題というのは私欲に塗れた低俗な問題が大半。そして問題の責任は次々と責任転嫁を続ける始末。そりゃそうだ。私欲に塗れているのだからなそんな私欲に塗れた五輪の行きついた先が私欲に塗れた疑惑による中止なのである。最初から私欲に塗れていたのだから行きつく先も私欲塗れによる自滅なのである。なんとも情けないものではないだろうか?少なくとも、1964年の東京五輪に携わった人たちはあまりの情けなさに涙を流しているだろう。だから東京五輪中止は必然だったと述べているのである。最初から間違っていたのだからだ

 とはいえ、まだ中止の可能性が出てきただけであって本当に中止になるかはわからない。むしろ準備等も考えても中止にすべきではないかもしれない。・・・といっても、2020年までまだ4年もあるから普通の国だったら軌道修正は案外容易かもしれない。東京五輪が中止になった場合の候補はロンドンになっているが、ロンドンはかつてオリンピックが行われた地であるから競技場等は残っているはず。今から新しく競技場を作ったとしても、4年もあるのだから十分間に合う。だって日本がまだ4年以上残っていたのに競技場を作り上げたんだもん。ロンドンだってできるよ。つまり仮に東京五輪が中止になったとしても4年という期間があるのだから、他で代替することは十分できるのである。むしろこんなに早く問題が噴出してよかったと喜ぶべきかもしれないな。別の意味でね

 

 以上で今回の文章は終わりとする。まだどうなるかわからない東京五輪であるが、こんなに問題が噴出しているんだ。今一度私たちはオリンピックとはどういうものなのか見つめなおすべきではないだろうか?。そのためのヒントは1964年の東京五輪が教えてくれる。東京五輪賛成反対問わず、オリンピックとは何かをもう一度考えてもらいたい。そのきっかけに今回の文章がなってくれたら幸いである。