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D.S.~ダルセーニョ~のブログ(仮)

自分で勝手に考えたことを色々書いています

浮上してきた日本核武装論を、独自に考えてみる

・初めに

 この文章は主観と妄想と野望と願望がたっぷりと詰まっています。それでもいいという方はお読みください。

 なお、今回も主観が中心になっています。ご了承ください。

・浮上してきた日本核武装

 全てはドナルド・トランプの発言から始まった。改めて発言内容を述べると、まずトランプは「アメリカは日本を守ってやっているのに、日本はその対価を支払っていない。よって日本から米軍を引き上げるべきだ」と主張した。その上で「米軍が日本から引き上げるのだから、日本は核武装しても良い」と発言した。

 これが日本核武装論が浮上するきっかけとなった。そもそも、日本の一部では小さくだが核武装を唱える人はいたし、議論も小規模ながら起こっていた。それがトランプ発言で一気に表に出たというわけだ。実際に、おおさか維新の会の松井一郎代表はトランプ発言を受けて公の場で核保有の議論を行うべきとの問題提起を行っている。表に出なかった核武装の議論が、トランプの発言で表に出るようになったのは間違いないだろう。外国人の発言で問題提起が巻き起こるというのも気に入らないが

 この浮上してきた日本核武装論について、あくまでも私一個人の考えをこの文章にまとめる。

・前提条件

 まず前提として、まっすぐ真ん中から考えた場合、日本の核武装そのものはありだ。そして核武装の議論自体もあってしかるべきものだ。そもそも人間社会に議論を行ってはいけない問題などない。どんな問題であっても自由が保障されている国ならば、問題に対する議論はあってしかるべきだ。よって、日本の核武装自体の議論を行ってはいけないという認識は間違いである。特定の問題に対する議論を行ってはいけないという認識は、その国に自由はないということを証明してしまうことになる。つまり、日本核武装論を議論すること自体をやめさせるということは、日本に言論の自由がないことを証明してしまうことなのである。だから議論すること自体をなくすというのは間違いであり、その言葉に従って、議論も行わない思考停止の状態になることも間違いなのである。これは現実社会を見ればわかる。議論も行わないで思考停止を繰り返してきたから、こんな社会になっているのだ。今後の日本では思考停止にはなってはいけないし、思考停止を促す者たちの言葉にも耳を傾けてはいけない。大事なのは考えることだ。この認識を特にこれからの日本社会を迎える上で日本人は持ってほしい。この前提条件を認識できていない日本人が恐らく多数派なので、本題に入る前にまず述べておく。

・日本の核武装自体は「あり」

 ここから本題に入る。先ほどもちらっと述べたが、まずまっすぐ真ん中から考えた場合の日本の核武装自体は「あり」である。必要でもなければ不要でもなく「あり」というのがポイントだ。

 なぜ日本の核武装が「あり」なのか。それは、今実際に核の脅威に日本が晒されているからだ。具体的に述べれば、中国と北朝鮮。特に北朝鮮は実際に核を撃つ危険性がある。この二カ国が当面の日本が受ける核の脅威ではあるが、他にも核の脅威は存在する。中国と北朝鮮に隠れるが、ロシアもまた核保有国であり北方領土の問題から核を日本に向ける可能性はゼロではない。他にも、今世界を震撼させている自称イスラム国も核兵器を持てば日本が狙われる可能性がある(というか自称イスラム国が核を持ったら別の意味でヤバいので、そもそも日本だけの問題でもなくなるが)。また大穴での核の脅威に、アメリカも含まれる。そもそも既に撃たれているしね。再びアメリカが核を日本に撃つ可能性は、限りなくゼロに近いがゼロではないということは常に認識しておいた方がいいだろう。このように考えれば、日本には核の脅威が様々な方向から降りかかっており、それに対抗するために核を持つというのはありなのだ。

 実はこれは日本だけでなく全ての核非保有国に当てはまることであり、核の脅威に対抗するために核武装をしてしまうことを核拡散という。これを防ぐために国連で核不拡散条約が結ばれた。・・・のだが、実際にはこの核不拡散条約は効果を発揮していないのが現状で、今なおイスラエル核武装を行おうとしている。そもそもこの条約では五大国の核保有は認めているので、国際社会で行われている核不拡散がどれだけ荒唐無稽なものなのかは一目瞭然だ。この荒唐無稽な核不拡散自体は実は日本にとっての武器になるのだがそれについては後述。

 国際社会での核不拡散は実質効果を発揮していないので、核に対抗するための核武装は現実的にはありなのである。よって、核の脅威にさらされている日本が核武装をすることもまっすぐ真ん中から考えた場合は、ありだと言えるということである。必要か不要なのかは議論で決めればいい。これが核武装の議論なのである。

 

 現実的に考えて、日本の核武装はありだという認識を持ったうえで、様々な思想や考え方などを踏まえながら、日本の核武装が必要なのか不要なのかの議論が起こることを祈っている。

・実際に日本が核を持つことについてはどうなのか?

 ここからは実際に日本の核武装は必要なのか不要なのかを考える。が、実はこれは見方によってさまざまな解釈ができる。必要な主な理由は先にも述べた通り、現実的に核の脅威にさらされているから。不要を主張する場合は、この現実的な核の脅威を核なしでどう対処すればいいのかを明確に主張する必要がある。そしてどちらの選択肢も取ってよいと私は考えている。どちらの選択肢も実は現実に即している。見方や向き方、進み方が異なるだけなのである。だから日本の核武装は難しい問題であり、議論のし甲斐のある問題でもある。議論のし甲斐があるということは、個々人が様々な考えを巡らせることができるということ。暇つぶしにはなるので良い機会なのでお時間がある時にでも考えてみることをオススメする。日本の核武装は本当に日本国民一人ひとりの意見次第で決まるものなのである。

核武装の議論を行う際に頭に入れておいてほしいこと

 日本の核武装を考える際に、頭に入れておくべき事柄が実はある。それは既に日本には核を落とされているという過去の事実だ。日本は唯一核爆弾を落とされた国である。それも人体実験目的で

---知っておくべき原爆の真実

 教育などで日本に核爆弾が落とされたのは戦争を終わらせるためであり、最終的に核爆弾を落とされるようなことをした日本が悪い、という認識を持っている人が大半であろう。だが事実は全く異なっており、核爆弾を落とさなくても戦争を終わらせることはできた、というか落とす必要がなかったのである。にもかかわらずアメリカは核爆弾を広島と長崎に落とした。なぜか。実際に核を落としたらどうなるのかを検証してみたかったからである

 これは恐らくアメリカ最大のタブーであり、アメリカ国民も認識している人は少ないだろう。じゃあなんで日本では真実を教わってこなかったのだと思うかもしれないが、核を落としたアメリカがその後の日本を作り上げてきたのだ。真実が隠蔽されるのは当然だ。これがアメリカの占領政策なのである。そしてこの占領政策の影響を今も受け続けているのが日本だ。実際に、広島長崎原爆の真実が人体実験だったと知っている人は日本にどのくらいいる?確実に少数派であろう。

---「日本が悪い」の一言が生む本当の歪み

 この恐ろしい現実を日本人は認識しなければならない。そして日本が悪いと言い続けていることも間違いだということも認識すべきなのだ。日本が悪いと言い続けることは、見方を変えれば原爆の被害にあったのは自業自得だと言えることになってしまう。事実は人体実験で、原爆の被害者は紛れもなく「被害者」なのだ。それが日本が悪いと言い続けることで加害者にもなってしまう。

 『そうだろう?だって日本が悪いんだろ?原爆を落とされるようなことをした日本が悪いんだろ?だったら原爆の被害者は自業自得じゃないか。原爆を落とされるようなことをした日本の国民なんだから』

 穿った見方をすればこういうことが言えてしまうのだ。それを解釈を変えることで当時の日本政府批判にすり替えているのが今の日本だ。だが事実が人体実験ならば、非難すべきなのはアメリカのはず。人体実験のための原爆投下という事実に日本が悪いという要素は一切ない。もしも人体実験を行うのなら、日本で行わなくてもよかったはずだ。なぜ日本を選んだのか?それも「日本が悪い」からか?

 こうして考えると、日本が悪いと言い続けることは原爆で命を落とした人に対する罵倒の言葉であり、日本に対する侮辱の言葉でもあるのだ。そしてこの「日本が悪い」という認識はアメリカからもたらされた歪んだ認識だ。それをどうして今も持ち続けなければならないんだ?

 原爆の慰霊碑には「過ちを繰り返させない」という碑文がある。これは誰が犯した過ちなんだ?日本が犯した過ちなのか?アメリカが犯した過ちなのか?人類が犯した過ちなのか?何であったとしても、原爆の真実から確実に言えることは、日本が犯した過ちではないということだ。原爆の真実は人体実験であり、過ちを犯したのはアメリカ、根本論を言えば原子爆弾を生み出した人類が悪いにも繋がるだろう。だが人類が悪いに繋がったとしても、日本が悪いということは1ミリもない。なぜか。原爆という人体実験の被害にあった唯一の国だからだ。なので日本が悪いという認識は絶対に捨てるべきなのである

--余談:真実を伝えてくれた青山繁晴という男

※余談なので飛ばしてもいいです(次の太字で余談終わり)

 この私の主張は、主に青山繁晴という人物からの話から生まれたものだ。詳しくは調べてほしい。青山繁晴さんは様々なメディアで原爆は人体実験だったとお話しされている。今彼が出演している、DHCシアターの「虎ノ門ニュース 8時入り!」というネットでも見れるCSの番組や、ニッポン放送のラジオ番組「ザ・ボイス そこまで言うか!」でも実際に話されたことがあるし、これからも話してくれるだろう。気になる方はチェックしてもらいたい。

 たった一人の話に左右されるとか馬鹿か?と思われるかもしれない。が、まず青山繁晴という人物が過去の事実に関して嘘をつくということはない。それを彼は信条にしているからだ。そして彼の話が嘘だと思ったら実際に彼に聞いてみればいい。公の場で発言しているんだから、嘘だとわかったら盛大に叩けばいい。公の場で発言しているからこそ、彼は自分の発言を大事にしている。だから私は青山繁晴さんの話を大事にしている。少なくとも彼から語られる過去の事実は不変のものだ。それでも間違っているかもしれないという疑惑はあるが、一般人では彼の話の裏付けをするのが困難なものもある。なので彼を信じるしかないのも事実だが、最終的には個々人が青山繁晴の話を信じるかに左右される。青山繁晴の話を信じない人もいていい。私は信じた。それだけのことだ。

 そして私が原爆が人体実験だったという事実を信じたのは、自分自身でそう考えると全てがしっくりくると認識したからだ。子供の頃から、どうしてアメリカは日本に原爆を落としたのかずっと疑問だった。戦争を終わらせるためと私も教わったが、小さい頃から、それでも原爆投下はやりすぎなのではないかと子供心に思っていた。その疑問が青山繁晴さんのおかげで晴れることができた。人体実験が理由の原爆投下ならしっくりきたからだ。だから私は裏付けもしないで原爆が人体実験だったという真実を信じたのである。そしてそれは実際に真実だ。嘘だと思ったら青山繁晴に直接聞いてくれ。

※余談終わり

---話を戻して

 かなり脱線してしまって申し訳ない。話を戻すと、日本核武装論を考える際に、既に人体実験目的で原爆を落とされたという事実を念頭に入れておくべきなのである。核を既に落とされたことがあるからどうするのかということを考えることが非常に重要なのだ。核を落とされたからこそ核を持つべきなのか。核を落とされたからこそ核を持つべきではないのか。二つの考えが本当に言えるのである。

 核の被害にあった日本が核を持つことの重要さは世界のどの国が核を持つことよりも重要なことになるだろう。どういう解釈が世界で行われるのかは未知だ。「核を落とされた日本が核を持つ」これが与えるインパクトはどの国よりも大きなものになるだろう。

 また核の被害にあったからこそ日本が核を持たないというのも重要だ。唯一の被爆国だからこそできることがある。それは本当の核不拡散につなげられるからだ。少なくとも、日本が核の不拡散を訴えれば世界は耳を傾ける。なぜならば世界で唯一核を落とされた国だからだ。そして日本が実際に核不拡散の主導国になれば、本当に世界中から核がなくなる可能性がある。その際に重要なのは、原爆の真実をきちんと世界に発信することだ。アメリカは嫌がるかもしれないが、事実は事実だ。正しい事実をしっかりと世界に訴えれば間違いなく世界は動く。それだけの力を日本は持っているからだ。だから日本が核を持つべきではないというのも重要なのだ。

 

 以上の事から、核を持つ・持たないどちらに転んだとしても日本は世界に大きな影響を与える。それだ世界で唯一核を落とされたという事実は大きいのだ。私たちは原爆を悲劇の象徴として扱っているが、見方を変えれば本当に核兵器に対抗できる武器にもなるのだ。原爆を落とされたという事実が、日本にとっての最大の武器になる。だから日本の核武装がどちらに転んでも良いというわけなのである。

・筆者の考え

 ここからは私の考えを述べる。今までの文章も私の考えではあるが、あくまでもまっすぐ真ん中から考えた上での主張だ。ここからの主張は完全に私一個人の主張である。それをここから述べる。

 まず初めに単刀直入にどっちがいいかを答えると、私は日本の核武装には反対だ。理由としては、先にも述べた通り、唯一核を落とされた国だからこそ核を持つべきではないという信条を抱いているからだ。現実的な核の脅威にはどう対抗すればいいのかと思うかもしれないが、これは逆転の発想で何とかできる。

---核武装をしなくても核の脅威におびえなくて済む逆転の発想

 そもそもなぜ核を保有するのか。それは相手に核という力の恐怖を与えるために保有するから。恐怖を与えるための保有というのがポイントだ。恐怖を与えるために核を持つということは、逆に言えば撃たなくてもいいというわけである。そして今の国際社会で本当に核を撃ったら、核を撃った国はどうなるのだろうか?また撃たれた国がどこであるのかもポイントである。

 こういう風にして考えた場合、実は日本というのは核の脅威に弱い国のように見えて強い国なのである。どういうことなのか。それは先にも述べた通り、世界で唯一核を落とされた国だからだ。日本への原爆投下は事実の認識はさておいて、世界にも広がっている大きな出来事だ。その日本にもう一度核を落とされたらどういうことが起こるだろうか?

---もしも日本に再び核が落とされたら?

 実際にもう一度核を落とされた場合、場所にもよるがまず日本は再起不能の状態に陥るであろう。特に東京に落ちれば、例え東京以外の地域が無事だったとしても、日本はその時点で滅亡を迎える。なぜならば、日本の主要なものはすべて東京に集中しているからだ。政治も経済も中心は東京であり、他の県で賄うことは絶対にできない。だから東京は世界でもトップクラスに危険な都市に指定されていたりする。この東京の危険性に関してはジャンルが違うので省略する。

 そして本当に東京に核が落ちれば、世界も衝撃を受けるだろう。そうなった時、落とした国はどうなるか。日本のこれからの歩み次第ではあるが、恐らく世界中から盛大に叩かれるであろう。最悪核を撃った国に日本の報復として他国からの核攻撃があるかもしれない。つまり、現実的に核を撃ったら自分の国も滅びることになるということなのだ。これは核抑止の一面でもある。特に集団安全保障を締結していれば、同盟国から撃たれる可能性は十分にある。撃ったら撃たれるから現実的に核兵器を使うことはできないというのも世界の現状なのである。そこに日本の特異な状況が合わされば、日本に核を撃った国は日本と同じように再起不能なまでに滅亡するであろう。

---暴走した核保有国が核を発射する危険性

 こういうことが考えられるから、日本に再び核が落ちることはまずない。が、100%ありえないというわけでもなかったりする。それは玉砕覚悟の暴走で日本に核を撃つ可能性というのも十分あり得るからだ。現実的に一番可能性があるのは北朝鮮だろう。北朝鮮が見境がなくなって日本に核を落とす可能性は十分考えられる。こういう面から、日本の核武装が必要だと主張することは十分理解できる。が、仮に持ったとしても暴走状態に陥った国は躊躇うことなく核を発射するであろう。つまり、日本が核を持とうが持つまいが暴走した国は核を撃つ可能性があるということなのだ。そう考えた場合の核保有のメリットは、撃たれる前に撃てることなのである。ここもまた核保有の議論には欠かせないものであろう。だが先にも述べた通り、撃てば世界から非難は生まれる。それは核を落とされた日本であっても変わらないであろう。この非難をどう考えて核兵器を保有するかが日本の核武装賛成派に問われるであろう。

 

 話を戻して、日本に核を撃てばそれは自分達の国も滅ぼすことになる。これが逆転の発想なのだ。一度原爆を落とされた日本だからこそ、核兵器を持たなくても核に強くなれるのである。むろんこの逆転の発想を生かすためには、それ相応の下準備は必要だ。まず核保有国との集団安全保障が考えられる。それは結局は核の傘に守られるということではある。結局核の傘に守られるのなら自分達で核を持った方がいいではないかと思うかもしれない。だがこれは保険としての考え方だ。私が本当にやるべきと思っていることは、日本主導の核不拡散運動である。

・日本主導の核不拡散運動

 日本主導の核不拡散運動の重要性は先にも述べた。原爆を落とされた国だからこそ核の不拡散を世界に訴え、世界をリードしていく必要がある。そんな日本の核不拡散運動は今の国際社会が行うよりも、はるかに効果がある。理由は先にも説明した。そんな核の不拡散を先導する国に核を落とせばどうなるのか。これが世界からの反発だ。今現在でも世界では核をなくすべきだという論調の方が多数派だ。日本が核不拡散を訴えれば、その多数派は間違いなく日本の味方になってくれる。そのぐらい原爆を落とされた日本の力というのは大きいのだ。この核不拡散を日本が率先して行うことこそが、核を持たなくても核の脅威に対抗できる手段なのである。

 そして自ら率先して核の不拡散を訴えるからこそ核兵器を持ってはいけないのだ。本当の核不拡散を実現させるために、私は日本は核武装すべきでないと考えている。例え原爆を落とされた日本であっても、核兵器を持ちながらの核の不拡散を訴えは、世界には届かず疑惑の目を向けられるだろう。本当に核の不拡散を実現させるためには日本は核兵器を持ってはいけない。そして本当の核不拡散を実現させることは日本ならできる。なぜそう言えるのか?それは日本が世界で唯一原爆を落とされた国だからだ。

 

 以上に述べた要素が私が日本は核を持つべきではないという主張の要点だ。だが他にも理由がある。これはどちらかと言えば、私の趣味からくる信念的なものだ。その信念というのは、ゴジラだ。

---ゴジラから語る日本の核武装

※完全に個人的なものになるので飛ばしても構いません

 私はゴジラが好きだ。生まれて一番最初にハマったものがゴジラだ。私はゴジラと共に成長してきた。そのぐらい私はゴジラが好きだ。私のことはさておいて、皆はゴジラが生まれた理由を知っているだろうか?有名な話なので知っている人の方が多いだろうが改めて述べる。

 ゴジラは1954年当時に社会問題となっていたビキニ環礁の水爆実験から発想を得たものだ。ビキニ環礁水爆実験では日本人も被害にあっており、それが社会問題として存在していた背景もあった。そこからゴジラのプランが生まれた。実際にゴジラも、海底に眠っていた恐竜がビキニ環礁の水爆実験を受けて誕生した水爆大怪獣という設定がつけられていた。そうして公開された「ゴジラ」は人間が生み出した恐怖の象徴として描かれた。実際に作品を見てみるとわかるが、当時の「ゴジラ」は私たちの知る怪獣映画とは程遠いものだ。むしろ私は記録映画に近いものだと思っている。なぜならば、「ゴジラ」には戦後の日本を描いた描写があるからだ。戦争の被害にあった日本を怪獣の被害にあった日本に置き換えて制作したのがゴジラだと思っている。だから1954年のゴジラはその後に公開された怪獣映画と比べても一線を越えている映画なのであり、今なおゴジラファンの中には初代が一番と述べている者も多いのである。私もその一人だ。

 このゴジラができた経緯と実際の作品、そして当時のゴジラに込められた想いがわかるからこそ、私は日本の核武装に反対なのだ。ゴジラは確かに空想の産物だ。しかし、どうしてゴジラを作ろうと思ったのかを考えれば、ゴジラという存在の大きさが自ずとわかってくる。実際に「人間が生み出した恐怖の象徴」のキャッチコピーが当時は作られたのだ。ゴジラは架空のキャラクターであるのと同時に核の恐怖を象徴するメッセージなのである。

 昔からそうかもしれないが、私たち現代人は、ゴジラは本当は恐怖の象徴であるということを忘れてはいないだろうか?ただのキャラクター、それもお金儲けのための道具と認識していないだろうか?実際の所はその通りである。だが、ゴジラが生まれた経緯を考えれば、ゴジラは世界でも数少ないメッセージ性のあるキャラクターだと思っている。そしてそのメッセージは世界のどのキャラクターよりも重い。核の恐怖のメッセージを詰め込んだゴジラを生み出した日本だからこそ、核の恐怖を忘れてはいけないと思っている。少なくとも、原爆を落とされ、水爆の被害にあった日本でなければ、ゴジラは生まれなかっただろうゴジラを生み出した日本だからこそ核の恐怖を忘れてはいけないのであり、核兵器も持ってはいけないと私は考えているのだ。

 これが私の趣味から考えた核武装否定論である。完全に私の主観で申し訳ない。

・まとめ

 ここから文章のまとめに入る。日本の核武装自体はありであり、考えるための議論も行ってよい。議論を行う際には、人体実験目的で原爆を落とされたという過去の事実を念頭に入れて議論すべきである。そして日本が核を持つ・持たないどちらの選択肢を選んでもよい。核を持てば現実的に核の脅威に対抗できるようにはなる。だがその場合は世界からの非難というのを考える必要がある。核を持たないという選択肢を選ぶ場合は、核なしで現実的な核の脅威にどう対抗すればいいのかを考える必要がある。

 そして私の考えは、日本は核を持つべきではないという考えであり、その理由は真の核不拡散を成し遂げるため。原爆を落とされた日本なら真の核不拡散を実現させることができ、これが核に対する別の抑止力になると考えているからだ。

 

 以上がこの文章の大まかなまとめである。あくまでも私一個人の考えではあるが、少なくとも日本の核保有はどちらを選んでも良いというのは、まっすぐ真ん中から考えれば言えることなのだ。その上で私は日本の核の非保有を主張しているだけだ。むろん私の考えが理想論に過ぎないということは十分承知している。だが数多ある日本のお花畑理想論に比べれば、真の核不拡散は実現の可能性のあるものであると私は考えている。少なくとも、日本が世界のリーダーになれば実現できる可能性は大いにある。大事なのは日本のこれからの歩みだ。日本のこれからの歩み次第では真の核不拡散は本当に実現できる。が、実現させなくてもよい。日本も他の国同様核を持っても良いと私は同時に考えている。私一個人の主張は真の核不拡散を実現させるためにも日本は核を持つべきではないという主張だが、まっすぐ真ん中から考えれば日本は核を持ってもいいという主張もあって良い。

 私の考えはあくまでも私の考えでありこれが絶対的に正しいとは言えない。なので私よりも日本人一人ひとりが日本の核武装を真剣に考えて、どちらの道を選ぶべきなのかを決めることが大事だと思っている。そのぐらい日本の核武装というのは意見の割れやすいものだと思っている。私は日本の核非保有を訴えるが、この文章を読んだあなたはどんな考えを持つだろうか?どんな考えを持っても構いません。大事なのは考えることです。一緒に日本の核武装を考えませんか?

 

 

 なお、日本が核を持とうが持つまいが本当にそれ以前の前提条件として、日本が武力行使できるようになることは当然のことである。今の今まで全く触れていなかったが、それは日本の武力行使が当然だと思っているから触れてこなかっただけである。私の壮大な理想論も武力行使できることが前提にあってこそ。そもそも世界の常識として、武力行使ができることは本当に常識レベルなのである。特にこれからの世界はテロとの戦いが主軸になっていくのだから、日本が武力行使できるようになったとしても、ほんとに極一部の国以外は容認するだろう。むしろ未だに武力行使できないのかと驚く国の方が多いだろう。核を持とうが持つまいが日本の武力行使は当然の行為なのである。その上で核兵器を持つか持たないかの違いになる。なので、日本の核武装論に入る前にまずは武力行使を容認させることから始めるべき。武力行使のできない今の日本はどう考えても異常国家だ。核武装の議論の土台を持ってくることは、実は日本が正常な国家になることにも繋がるのである。核武装で恐らく世論が割れると思うが、その前に武力行使を容認させることから始めましょう。武力行使の是非で世論が割れているようでは、日本はどう考えても正常な国家になることはできないし、実のあるはずの核武装論もできないだろう。

 

以上で終了です。ご拝読ありがとうございました